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中教院扁額

【重要文化財 指定年月日  昭和60年11月3日】

中教院扁額

中教院扁額

医王寺の書院・客殿の正面には「中教院」と書かれた扁額を掲げています。
この中教院というのは、明治5年(1872)教部省の社会教育施策として、神仏合同布教による民衆教化のために全国に教導職制が施行されました。教導職はその当時、僧侶や神官などが任命されました。

明治6年(1873)に神仏合同布教の中枢機関として大教院が設立されました。
大教院は民間団体でしたが、教部省の管轄下にあり、中教院はこの思想伝導施策のため、大教院のもと各府県に1院が置かれ、地方教化の拠点となりました。
中教院は府県内の各地方ごとに設立された小教院の事務一切を管理し、教導職の任命や昇級試験の実施を任務としていました。
明治8年(1875)2月「浜松県中教院」がこの施策にもとづいて浜松市の五社神社境内に完成しました。

医王寺にある中教院扁額は浜松市の五社神社境内にあった「浜松県中教院」のものと考えられます。
ケヤキ材を用いた看板で、縦42.8cm、横140cm、厚さ2cmです。書は元真言宗東寺派の総本山・東寺観智院第17世の権大教正大宮覚寶師によるものです。
明治8年(1875)5月、神仏合同布教が廃止となり、中教院の制度も廃止となりましたが、「浜松県中教院」の名称はその後も残されることとなりました。

この中教院扁額は、医王寺住職の松村淳高師に引き取られて医王寺に移りました。
松村淳高師は、坊中学校の設立に尽力し、明治時代の学校教育に多大な功績を残した人でした。そのため中教院扁額を拝領し、地域教育の原点となり、多くの学生の教場となった医王寺の客殿に掲げたのでした。

この扁額は、明治初期の宗教施策を物語る貴重な資料と言えます。