医王寺について
医王寺の歴史
寺院には、山号、院号、寺号という3通りの呼び方があります。医王寺は「 鎌田山(かまださん)金剛院(こんごういん)醫王寺(いおうじ)」と称されます。
天平6年〜20年(734〜748)聖武天皇の勅命を奉じて、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が当地を訪れ、この地に薬師如来の霊験ありとし、山内の名木で薬師如来の尊像を一刃三礼のもとに敬刻、ご本尊として祀ったのが始まりと伝えられています。 故に医王寺では、行基菩薩が開基と仰がれています。
平安時代の弘仁年間(810~822)嵯峨天皇の厚い帰依を受け、七堂伽藍が整い、真言密教の根本道場となりました。 その当時の山容は、広大な境内に、本堂、金堂、講堂、五重塔、三重塔、鐘楼堂、仁王門、三十六ヶ坊の末寺などが配置されていましたが、戦国時代の元亀3年(1572)、武田信玄勢の兵火にかかり寺塔ことごとく灰燼に帰したのでした。
のちの天正12年(1584)徳川家康は兵火による焼失をいたく惜しまれ、徳川家康自ら浄財を出してその再興を援助されましたが、ついに旧観に復帰させることが出来ませんでした。
慶長9年(1604)ふたたび失火による火災と悲運に見舞われますが、徳川幕府の御寄進を受け、医王寺は復興を遂げます。
寛永12年(1635)三代将軍徳川家光は、祖父徳川家康のかつて与えた「黒印」を改めて、石高百三十五石(135石)の「朱印」を与えられます。おかげで寺運は大いに振るい、江戸時代末期まで代々百三十五石を領していました。当時の隆盛をしのぶものとして医王寺では「大名駕籠」が現存しています。
当時の医王寺は、鎌田薬師(かまだやくし)の名称で親しまれ、金剛院を本寺とし、多くの塔頭を擁していました。その坊のあった一帯は今でも坊中(ぼうぢゅう)という地名で呼ばれています。
金剛院の塔頭として構えられていたのが、医王寺でした。本寺にあたる金剛院が明治維新の廃仏毀釈、神仏分離の嵐により寺運がゆらいだため、明治8年(1875)医王寺を再興する形で法灯を守ったのです。この時、三十六ヶ坊のほとんどが廃寺になっています。
そして、明治27年(1894)京都市東山七条の智積院(ちしゃくいん)の末寺に属し、真言宗智山派の寺院として、今日に至っています。
それ以前は京都市宇治の報恩院(ほうおんいん)の末寺でありました。
昭和19年(1944)第二次世界大戦の真っ只中、本土空襲の激化のため、帝都疎開命令がだされ、東京の国民学校初等科児童は次々と集団疎開をすることになりました。
磐田市近辺にも、多くの児童が疎開することとなり、寺院などが受け入れ先になりました。
医王寺では、蒲田国民学校の児童108名を受け入れました。これは一ヶ寺の受入人数としては、磐田市内最大でした。
昭和61年(1986)3月医王寺の屋根は老朽化にともない、雨漏りなどもあったため、銅板に葺き替えました。
葺き替え以前の瓦屋根の総重量は何十トンにもなり、東南海地震の心配もありました。新しい銅板の屋根では、瓦屋根の約1/3の重量で済むと予測されています。
写真は医王寺の庫裡に載っていた鬼瓦です。
葺き替え直後は、朝日で光り輝いた銅板の屋根が眩しく、遠くからでもそれと分かるほどだったそうです。