参拝のご案内

薬師堂

医王寺の境内にある薬師堂は、昭和22年(1947)10月に移築されたものです。もともとは、浜松市鴨江寺の兼務寺院である、和地山の養源院の本堂(4間半×3間半)でした。

この和地山の養源院は、もともと不動明王を祀っていたようですが、医王寺に移築されてからは、ご本尊さまの薬師如来と十二神将を風雨からお守りするお堂になりました。

現在の薬師堂

医王寺 現在の薬師堂

医王寺 現在の薬師堂

医王寺もともとの薬師堂

医王寺の絵葉書 薬師堂 昭和初期頃

医王寺の絵葉書 薬師堂 昭和初期頃

上記の写真は、医王寺にもともと建立されていた薬師堂です。場所は、現在薬師堂が建立されている場所と同じでした。
屋根が比較して大きいお堂のため、遠方からでも医王寺の薬師堂のそれと分かるほどであり、大変威厳に満ちたお堂でした。この薬師堂は、総けやき造りで幕末時代に建立されたものと推測されています。

昭和19年(1944)12月に起こった東南海地震により、薬師堂の棟瓦が薬師堂後方、北側にすべり落ち、屋根を突き破って堂内に落ち込んでしまいました。おかげで、薬師堂内一面に雨漏りするようになっていたのでした。

当時の医王寺住職、堀井龍豊師も薬師堂の改修工事を強く願っていたのですが、戦時中の貧しい中では、物資も人出も不足し改修工事もままならず、雨漏りの応急処置すら出来ぬまま2年ほどの歳月が流れました。

浜松市の鴨江寺は、観世音菩薩をお祀りする真言宗の寺院です。春・秋の彼岸には大変多くの参詣者が集まります。その鴨江寺は、昭和20年(1945)6月18日、浜松市を狙った艦砲射撃と焼夷弾により、鴨江寺の諸堂伽藍すべてが灰燼に帰しました。  浜松市の中心部は焼け野原となり、人々の心も暗く沈み、将来の希望すら見えぬどん底の生活を強いられるようになってしまったのでした。

この当時のことを覚えている人は、磐田市から見た浜松市の方角の西の空は真っ赤に染まり、恐ろしい音が聞こえたそうです。

そのような時代背景の中、医王寺住職、堀井龍豊師と鴨江寺住職、建部快運師は出会うことになります。何度かの協議の末、医王寺の薬師堂は、鴨江寺に移築することが決定しました。医王寺としては、薬師堂が改修されず、このまま朽ちさせるわけにはいかない。また、戦災にあった人々を一人でも多くお救いするがために、薬師堂移築の案に賛同したのでした。その甲斐もあり、薬師堂は、多くの参詣者に親しまれるお堂として今現在も、鴨江寺にて大切にされ、その法灯は脈々と受け継がれています。

昭和22年(1947)7月10日、薬師堂の移築・解体作業が無事終了することを願い、大般若法会が薬師堂内で営まれた後、作業が始まりました。この日が薬師堂で法要が営まれた最後の日になったのでした。
移築作業は、戦時中で当時本当に希少だったトラックが用意され、解体した柱や瓦を何度も何度も往復輸送したそうです。 移築作業がすべて終了したのが、昭和22年(1947)10月8日であり、3ヶ月もの月日を費やした大変大がかりな作業でした。

医王寺では、もともとの薬師堂を中心に、以下のような仏教行事を催していたようです。

  • 初午祭(はつうまさい)3月の始めの午の日、近所の午を集め、その年の豊作を祈りました。
  • 大般若転読法要(だいはんにゃてんどくほうよう)大般若六百巻を用いた法要で、大変なご利益を授かります。
  • 百万遍念仏(ひゃくまんべんねんぶつ)薬師堂内で輪を作り、大きな数珠を念仏を唱えながら回す行事。

現在の薬師堂の彫刻

現在の薬師堂の彫刻 「玄武」

現在の薬師堂の彫刻 「玄武」

現在の薬師堂の彫刻 「青龍」

現在の薬師堂の彫刻 「青龍」

薬師堂の石灯籠と彫刻

薬師堂の石灯籠と彫刻