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和算額
【重要文化財 指定年月日 昭和51年11月3日】
和算額とは、額や絵馬に数学の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したもののことを言います。和算は大変高度な学問であり、和算を修学していることは大変名誉なことでした。
医王寺には、2面の和算額があります。その当時は、神社や仏閣に頻繁に奉納されたものですが、木製のため焼失したり、歳月により朽ちてしまい現存している和算額は少なくなく、大変に貴重な物です。
1面は、安永8年(1779) 3月長江村(現鎌田)の江塚平兵衛時之えづかへいべえときゆき氏より奉納して頂いたものです。
江塚平兵衛時之氏は関流山路弥左衛門(やまじやざえもん)氏の門下に入り和算に打ち込みました。
関流(せきりゅう)とは、日本で独自に発達した数学、和算のひとつの流派です。江戸時代には大いに発展して、西洋の数学とは別な方向から積分などの発見がなされた、大変高度な学問でした。長江村では和算額のことを「そろばん様」と尊敬の念をもって呼んでいました。
もう1面は、安政3年(1856) 3月、東新屋の山下藤右衛門次助(やましたとうえもんじすけ)氏が奉納したものです。次助は庄屋の家に生まれ、幼少時代から算法を好み、文化11年(1814) 18歳のとき江戸に出て関流山路左衛門諧孝(やまじさえもんゆきたか)氏の門下に入って、和算を学びました。天保6年(1835) 40歳で免状を授けられ、明治4年(1871) 76歳で没しました。
なお、その門人、大坂村(現大東町)の伊藤久徳は、明治29年(1896)鎌田神明宮に算額を奉納しています。
和算額は、数学の問題が解けたことを神仏に感謝し、益々勉学に励むことを祈願して奉納されたと言われています。
やがて、人の集まる神社仏閣を和算の発表の場として、難問や、問題だけを書いて解答を付けずに奉納するものも現れ、その問題を見て解答を和算額にしてまた奉納するといったことも行われたようです。
算額奉納の習慣は世界的に見ても、日本独自の文化です。明治時代になって鎖国が解けると、日本には西洋の数学が導入されるようになりましたが、この導入を容易にしたのは、和算が西洋の数学にひけをとらないものだったことと、和算額を奉納する風習により、和算が全くはじめての学問ではなかったこともあげられます。