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医王寺文書

【重要文化財 指定年月日  平成元年11月3日】

武田信君(穴山信君)禁制 年欠 7月28日

武田信君(穴山信君)禁制 年欠 7月28日

武田信君(穴山信君)禁制 年欠 7月28日

戦国期に武田信玄の甥にあたる穴山信君〔梅雪〕が、鎌田の医王寺に下した禁制です。内容は、寺領内での軍勢の乱暴狼籍・竹木伐採・寺中陣取の3点の禁止を命じたもので、長篠の戦いが起きる天正3年(1575)より前のものと考えられます。

戦国大名の今川氏が滅亡した後の、遠江支配をめぐる武田氏と徳川氏の抗争において、天正3年(1575)の長篠の戦いを画期とする両氏の勢力範囲は、同天正3年5月前は武田方が優勢、後は徳川方の攻勢が目立つといわれます。

天正元年(1573)11月、武田勝頼は遠江に侵入し、犬居城・二俣城・高天神城(天正2年6月徳川方から奪取)・小山城を拠点に徳川方と対峙しました。  武田方の軍勢が遠江を移動・通過する際、地域の寺社などは、兵火を避けるため、武田軍に「禁制」の下付を申請する場合が多かったといわれ、医王寺の「禁制」もこのような情勢の中で、天正2年(1574)頃に下付されたものと考えられます。

徳川家七ヶ条定書 天正17年(1589) 7月7日

徳川家七ヶ条定書 天正17年(1589) 7月7日

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豊臣政権下で秀吉の全国統一に協力するようになった徳川家康は、関東に移封される前、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国を支配する大々名でした。家康は、五か国総検地の実施と七ヶ条定書の発布により、五か国支配の基礎を築きました。

七ヵ条定書は、天正17年(1589) 7月から天正18年(1590)2月までの間に発給され、現在188点が確認されています。
そのうち遠江にて現存しているものが108点と最も多く、次いで駿河40点、三河25点、甲斐14点、不明1点となっており、磐田市域では、14点の七ヶ条定書が確認されています。

この定書は、徳川氏の郷村支配の基本方針(年貢・夫役・陣夫・使役等の規定)を示したもので、冒頭に家康の朱印が押され、七ヶ条の条文の後に年月日と家康の意を奉じた奉者(発給者)の名があります。
医王寺の定書の奉者は、原田佐左衛門尉種雄(はらださざえもんのじょうたねおう)です。なお、市内の七ヶ条定書(14点)の奉者は、伊奈熊蔵家次(のち忠次)が8点、原田種雄が4点、渡辺矢之助光と天野三郎兵衛景能が各1点となっています。

豊臣秀吉禁制 天正18年(1590)正月日

豊臣秀吉禁制 天正18年(1590)正月日

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豊臣秀吉が公権力としての「公儀」の正当性を獲得し、全国を統一する過程で発令した「禁制」になります。

天正15年(1587)5月、九州を平定した秀吉は、天下統一の矛先を関東・東北に向け、諸大名間の武力・領土紛争を禁じ、豊臣政権による調停に従わない大名は討伐するという「惣無事令」を発しました。
しかし、天正17年(1589)小田原の北条氏はこれを拒否したため、豊臣秀吉は諸大名に小田原攻めを命じました。これにより、天正18年(1590)7月に北条氏は滅亡しました。

この禁制は、豊臣秀吉の軍勢が通過をする際に、その地域での掠奪や不法行為を禁止し、支障なく軍事行動を遂行するために発給されました。
その内容は、乱暴狼藉、放火、百姓に対する非分の行いを厳しく禁じたものです。